ある文系の思議録

公共政策大学院→国家公務員3年目です。

(自称)進学校の功罪と今年の目標について

お久しぶりです。

 

令和4年4月、初めての異動を経験し、今までとは違う業務の内容に戸惑いながらも、徐々に慣れつつある今日この頃です。

 

さて、異動に伴い、今まで学んできた業務の内容とは完全に異なる業務をすることになるため、勉強することがたくさんあります。昨年度の仕事内容と全く被るところがないので、新たな仕事に転職したような感じです。

前に記事でも書きましたが、私は、昨年度、大学院に通いながら仕事をしていたところ、大学院を無事卒業できたため、大学院の勉強(主に論文の執筆)をする時間を仕事のための勉強をする時間に充てることができるようになりました。

そのため、時間的にはかなり余裕ができるだろうと思っていましたが、そんなことはなく、毎日新しい仕事と格闘しているうちに、気づけばゴールデンウイークになってしまいました。

 

異動前は、英語の勉強や法律の勉強を深めようという野望を抱いていたのですが、その野望ははかなく散ってしまう予感がします。休みの日は寝て家事をするだけで終わってしまい、かといって平日に勉強をするわけでもないという日々が続いており、プラスアルファの勉強はおろか仕事の勉強すら満足にできていない状況です。

 

当然、そんなことではいけないので、どうにか頑張らないといけないなと思っているのですが頑張れません。

 

このご時世、周りを見渡すと、血反吐を吐くまで頑張れという言説を見ることはあまりなく、無理して体を壊すよりは休んだ方が良いというメッセージがそこかしこにあふれている気がします。

私は、高校生の時、(自称)進学校に通っており、強制的に勉強をしなければならない環境にいました。そのため、勉強は辛いものであるが、しなければならないという思想に囚われており、勉強をしないという選択肢はありませんでした。

しかし、社会人、いや大学生になってから、勉強をするかしないかはあくまで個々人の裁量に委ねられており勉強したい人だけがすればよいという、いわば当たり前の考えにたどり着いたように思います。

そうなると強制的に勉強をさせれてきた私のような人間は勉強を自発的に行うということはせず、とりあえず単位がとれれば良い、とりあえず仕事がこなせれば良いという思想になってしまいます。

 

そんなことではいけない、自分はどこかのタイミングで変わるはずだと思い続けて、もう6年も経ってしまいました。こんな調子では、充実感を得ることなく、残りの人生を送ってしまうことでしょう。

 

振り返ってみれば、勉強を強制的にさせられてきた高校時代は今より充実した毎日を過ごしていたように思います。大学合格という一つの目標に向けて朝から夜まで勉強する生活というのは、辛いながらも良い経験でした。そうであるならば、自己研鑽を強制される環境というのは素晴らしいもののようにも思えてしまいます。

しかし、きっと、自己研鑽を強制される環境と強制されない環境を二項対立で語ること自体が間違いで適度に組み合わせるべきなのでしょう。自分の家の中では勉強できないから、近くのカフェに行って勉強するみたいなことが理想な気がします。

 

勉強をする以上、どうしても辛い要素は発生してしまうと思います。辛いことを継続して行うためには、習慣化するほかないと思いますので、カフェに寄ってから出勤するということを今年の目標にしたいと思います。

 

それでは